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東巌社


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算数の時間?

松聲館甲野善紀先生のHPを久々に拝見しました。

8月28日の随想録に東京大学理学部数学科在籍中の森田真生氏という方を紹介されています。

甲野先生に宛てた手紙がとても興味深いものだったのでここで一部を紹介させて頂きます。
・・・と思ったのですが、解りずらくなるとイケないので全文載せます。

稽古についてはもちろん子育てに奮闘されている方、そのほかいろいろな分野において、氏の考え方は深い示唆を与えてくれるものだと思います。若い才能に惜しみない拍手を送りたい。

『甲野先生

早速「ハチはなぜ大量死したのか」を読み始めました。
これは予想以上に衝撃的な内容ですね。

今日は本当に多くの刺激を受けましたので、勢いで考えるところを書いてみようと思います。
(今後もし往復書簡形式でやり取りをさせていただくことになるとしたら、これがそのきっかけとなればと思います。)


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●数学は道徳の時間に教えてもいい
― 「分からない」を認め、それと向き合うという倫理
今日もお話しましたとおり、数学とは本当は道徳や倫理の時間に教えてもいいような科目であるような気がしています。

本来数学から学ぶべきもっとも大切な教えは、「分かる、というのは本当に本当に難しいことなんだ。」ということではないでしょうか。

人間はいとも簡単に物事を理解したつもりになります。
すぐに「分かった」と言ってしまう。

それは自然があまりにも多くの奇跡に満ちているために、その奇跡に対応するために人類が生み出した戦略でもあるのです。

なぜ人間は生きているのか。
なぜかぼちゃの種からかぼちゃができるのか。
なぜ月はひとつで、ほととぎすの鳴く声にこころ動かされるのか。
なぜ地球の裏側では貧困にあえぐこどもたちがいるのに、今日もコンビニから食べ残しの山が消えないのか。

人生はあまりにも多くの謎と矛盾と、無限の奇跡に包まれていて、それらをすべて真正面から受け入れていたら、簡単に人間の想像力のキャパシティを超えてしまう。

そのため、人間は「物語をつくる能力」を身につけました。
物語によって、謎をいったん打ち切る。
「想像力の限界」を設定することで、キャパシティオーバーを防ごうというわけです。

しかし、物語による現実の奇跡からの逃避という手段があまりにも便利なため、人類は過度にこの手法に頼ってきてしまっているように思います。
その結果わたしたちが日々知覚している世界は、極度に想像力の欠如した、極端に陳腐な物語に規定されたつまらないものに成り下がってしまっているようです。

即席の物語が、現実にとってかわってしまったかのようです。

「わたしたちはなんのために生きているの?」

「そんなことは死んでから考えろ。
いまはとりあえず一生懸命働きなさい、みんなもそうしているじゃないか。」

・・・「謎」は隠蔽されてしまったのです。

●数学者は永遠に問う

数学の出発点は、「この世に自明なことはなにひとつない」と宣言するところにあります。

1+1 = 2
これひとつとってもまったく自明ではない。

なぜ1+1=2なのかを徹底的に考え抜く。

徹底的に1+1はなぜ2なのかを考え抜いてみると、自分がいままで足し算のことなどなにひとつわかっていなかった、ということに気づく。

そして自分がいままでいかに多くの「謎」をやり過ごしていたかに気づく。

このときに全身で感じる恥ずかしさ、反省の念、そしてこのときにこころの中にすくと芽生える謙虚さが数学のはじまりの兆しです。

数学の目的は、最終的に出版される論文でも、証明される定理でもなく、「分かる」ということを徹底的に追求する、そのこと自身にあるように思います。

どこまでも謙虚に、どこまでも誠実に、「わたしはほんとに分かっているのだろうか」と自問し続けるのが数学です。

多くの方は数学者を「問題解決者」だと思っているようですが、数学者とは生来「永遠の問題提起者」なのです。

ひとつの謎が解かれると100の謎が生まれる。
美しい謎、美しい問いを提起し続けるのが、数学の使命ではないでしょうか。

●問題解決者の大量生産

現代の教育は、この数学の本来の役割を真っ向から否定しているかのようです。

現代の教育システムを簡単に総括してしまうなら、「問題解決者の大量生産システム」と呼ぶことができるでしょう。

名のある大学の入試を突破し、数々の難しい資格を取得できる優秀な問題解決者が毎年何万人と生産されています。
一方で、優秀な問題提起者を育てる努力はほとんどなされてこなかったようです。

その結果は火を見るより明らか。

「陳腐な問題を、大量の問題解決者がこぞって解く」

という構図が生まれたのです。

・いかにして1円でも儲けるか
・いかにして1グラムでも多く生産するか
・いかにして1秒でも楽するか

問題提起者の不在により、このようなつまらない問題に大量の人材が人生を賭けて取り組んでいるのです。

・かぼちゃの種からなぜかぼちゃができるのか
・作物に花が咲くとなぜ実がなるのか
・わたしたちはそもそもなんのためにいきているのか

このような根本的な問いを、創造的な形式で問いかける人がひとりでも多くいたら、世界はいまとは違った姿になっていたでしょう。

「かぼちゃの種からなぜかぼちゃができるのか」
そう問う余裕すらなくした人類が、ひとつでも多くのかぼちゃを生産するという面白みのない問いの「解決」に全力で取り組んできた結果が、『ハチはなぜ大量死したのか』に描かれている、いままさにわたしたちが生きている世界なのではないでしょうか。

●数学教育の矛盾

このように考えてくると、
「計算がスラスラできることが数学だ」
と言わんばかりの現在の数学教育は、世界の悲惨な現状をますます増幅させるばかりであることが分かります。

「分かるというのは一筋縄にはいかない、本当に困難な作業なんだ」
ということを認めるならば、スラスラと計算問題が解けて、満点ばかり取っている学生はよほど「危ない」という気がしてきます。

分かる、ということはそんな簡単なことではない。
インスタントラーメンのように即席でできるものではない。

理解というのは、種から花を育てるように、あるいはたっぷりと時間をかけて樽の中でワインを熟成させるように、「分からない」と取っ組み合い続ける時間の中から徐々に醸成されるものなのではないでしょうか。

そのためには「分からない」ということを自分の中に大切に持っていなければいけない。
じっと向き合っていかなければいけない。

「分からない」と取っ組み合い続けた時間が長ければ長いほど、そのあとに訪れる理解は味わい深いものになる。
だからこそ「待つ」ということを学ばなければならないのであって、試験開始と同時に、問題も理解しないうちから鉛筆を握るなどという姿勢は論外であるはずなのです。

そういう意味では、サイン・コサイン・タンジェントも、難しい微分や積分も分からなくていいから、なにかひとつでも自分の頭で考え抜いて理解する体験。
そういうものを数学教育は提供しなければならないはずなのです。

サインもコサインもタンジェントも、自分の頭でかんがえてみたことがないならば、本当に役になんて立たない。

むしろ「なにも分かっていないのにテストで満点を取った」という罪の意識と嫌な思い出だけが残ることになるでしょう。

最悪の場合は、「何も分かってなくても、みんなは褒めてくれる」と味をしめてしまうことになりかねません。

●永遠の挫折

現代教育を受けているわれわれの多くは、小学校の初期の段階で「永遠の挫折」ともいえる挫折感を味わいます。

いちたすいちは2です。

と先生が言うと、まわりが全員頷く。

「え??」

と思うことも許されぬうちに、算数の授業はどんどん進む。

分からないことの嵐に襲われて、「分かる」をあきらめ「認める」あるいは「覚える」へと堕落するのです。

「分かる」をあきらめ、「覚える」へと堕落した瞬間、われわれは「エリートコース」へと華々しいデビューを果たします。
本当に分かっているかどうかはともかく、分かったことにする。
それができる子は社会に笑顔で迎え入れられます。

一方で「分かる」を追求し続けようとする「ものわかりの悪い子」は、「数学の才能なし」のレッテルをはられるのです。

かくして、最も才能のある数学者が、こんなにも若くしてその才能を摘まれていくのです。

●本当の勤勉さとはなんだろうか

本当の勤勉さとはなんなのでしょうか。

本当はなにも分かっていないのに、次から次へと問題を解く。

自分の内面に数学的な現象の世界がなにひとつ立ち上がっていないけれど、数学の問題を日々何十題も解く青年。

一方で、一向に問題は解けないが、日々自分のうちの「分からない」と格闘し、ひとつひとつの「分かる」を積み重ねていこうとしている青年。

果たしてどちらが勤勉と言えるでしょうか。

答えは明らかでしょう。

本当の勤勉さとはなにか。

それを改めて問わなければいけないように思います。


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長くなってしまいましたが、思うところを文章形式で少し書いてみました。
今後もアイディアなどをこうしたかたちで書き留めていこうと思います。

あらためて今日はありがとうございました。

森田真生 』

以上


森田さんの今後ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

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